歌劇『Fidelio』

登場人物(声域)

あらすじ

第一幕

 十八世紀のスペイン、セビリヤ近郊の国立刑務所。貴族のフロレスタンは政敵である刑務所長のドン・ピツァロに捕らえられ、この刑務所に不当に監禁されている。

 フロレスタンの妻であるレオノーレは男装して「フィデリオ」という偽名で刑務所に潜入、看守のロッコのもとで助手として働きながらフロレスタンを救出する機会をうかがっていた。 看守のロッコはフィデリオの働きぶりに感心し、是非とも娘のマルツェーネと結婚させたいと考え、マルツェリーネもフィデリオにすっかり夢中だが、 門番のヤキーノは何とかマルツェリーネと結婚したいと思って求婚を繰り返している(けれども、断られている)。

 ある日、大臣のドン・フェルナンドが刑務所の視察に来るという手紙が届く。仰天した所長のドン・ピツァロは悪事が大臣にバレることを恐れ、「今こそ復讐の時だ」とフロレスタンを暗殺しようと決心する。ドン・ピツァロはロッコを買収してフロレスタンを始末させようとするが、驚いたロッコは何とか断る。その代わり、ロッコはフロレスタンの墓穴を掘ることを命じられる。

 フロレスタンが幽閉されている、秘密の地下牢はロッコにしか入ることが許されていないが、フロレスタンの所在を確かめたいレオノーレはロッコを説得して地下牢に入る許可を取り付け、墓穴を掘る作業を手伝うことになった。

第二幕

 秘密の地下牢で鎖に繋がれているフロレスタンは「人の世の春だというのに、幸せは去った」と絶望し、倒れ込んでしまう。そこにロッコとレオノーレが降りてきて穴を掘り始める。やっと秘密の地下牢に立ち入ることができたレオノーレは、ついに夫のフロレスタンを発見し、わざと穴掘り作業に手こずったり、フロレスタンに食べ物をあげたりして時間稼ぎをする。フィデリオが変装した妻であることを知らないフロレスタンは「生まれかわったら是非ともお礼を」と感謝の言葉を連発するが、墓穴が掘り上がってドン・ピツァロが降りてくる。

 剣を抜いたドン・ピツァロがフロレスタンを刺そうとするところに、レオノーレは「まず妻を殺せ!」と間に割って入り、それまで隠していた正体を明らかにする。ドン・ピツァロは二人とも殺してしまおうとするが、レオノーレは隠し持っていた拳銃をドン・ピツァロに突きつける。その時ラッパが響き、ヤキーノが大臣の到着を知らせに駆け込んでくる。レオノーレとフロレスタンは再会と助かったことを神に感謝する。

 刑務所の広場には大臣が到着し、恩赦で釈放された囚人達が歓呼の声を上げる。ロッコからレオノーレの勇敢な行動の報告を聞き、フロレスタンを紹介された大臣はドン・ピツァロを逮捕させる。そして、死んだと思っていた旧友のフロレスタンとの思いがけない再会を喜ぶ。レオノーレは大臣から鍵を受け取り、フロレスタンの鎖を解き放つ。一同はレオノーレの勇気と二人の愛を讃える。

解説

 ベートーベンは生涯でこの一曲しか歌劇を発表しなかったが、その『Fidelio』は何度も改訂を重ねた意欲作であったようだ。初演は不評だったようで、大幅に音楽や台本を書き換えたり、もとは『Leonore』だった題も現在の『Fidelio』に改められたりした。序曲だけでも四つの版が存在し、歌劇の序曲には最終稿の『フィデリオ』序曲が用いられるが、それ以外の版(例えば、『レオノーレ』序曲 第三番)も単独でよく演奏される。

 音楽自体は非常に感動的なもので、劇の内容というよりもむしろ、ベートーベンの音楽を聴くべき作品であろう。全体はおおよそ四つの部分に分けられ、第一幕の前半は「平和な」日常の風景で、フィデリオ・マルツェリーネ・ヤキーノ・ロッコの間で交わされる恋愛と結婚の駆け引き。第一幕後半はドン・ピツァロがフロレスタン暗殺を決意して事態が緊迫する部分。第二幕前半は囚われたフロレスタンの嘆きと、夫を発見して何とか助け出したいレオノーレの心の葛藤。第二幕後半はドン・ピツァロとの闘いに勝ち、葛藤を乗り越えて自由の身になる。

 これはまさにベートーベンの交響楽の世界であって、暗黒(苦悩)→光明(解決)というベートーベンのモットーが歌劇という形で、きわめて端的に表現されたものだと思う。例えば、第二幕はいきなり地下牢の場面から始まるが、これこそまさに苦悩の象徴であり、暗殺に現れたドン・ピツァロとの駆け引きの場面での音楽は、その闘争の過程を熾烈なまでに表現する。音楽がある情景を「描写」するという二次的な意味ではなく、音楽「そのもの」が葛藤でありドラマである。このような「音楽そのもの」の力を持つからこそ、ベートーベンの音楽は感動的なのである。演奏にもよるだろうが、それでもこの歌劇を通して聴くと、しばらくは他の音楽を聴く気力を失ってしまうほどのエネルギーを持つ。

 劇の筋書き自体は単純だが、主に始めに登場するマルツェリーネやヤキーノの役割が良く分からないとか、ドン・ピツァロとフロレスタンの確執がどういう背景だったのかが不明であるとか、台本の弱点に対する指摘は多々あるようだ。現代の感覚からすれば、長期間にわたり変装をするというのも不自然だが、女性が男性の役を演じるというアイデアは、『フィガロの結婚』のケルビーノや『薔薇の騎士』のオクタビアンなど、歌劇の中でひろく用いられる手法ではある。ただ、劇中ではあくまでも男性役であって、その配役が女性であるという場合が多いように思う。ところが、フィデリオは劇中の設定からすでに女性が男性に変装しているということになっていて、劇の後半では女性であるということが明らかにされてもとのレオノーレに戻る。

 生物学的に性別そのものを入れ替えることは困難だが、服装によってジェンダーを入れ替えることは、封建制度や宗教などの背景に縛られる、(特に女性の)「束縛からの解放」を象徴的に表現しているように思われる。このような「ジェンダーからの解放」という欲求は実はかなり普遍的に存在するものであり、「性別を入れ替える」というモチーフは、歌劇だけではなく様々な古典的な演劇や、現代の表現の中でも用いられている。

 レオノーレの場合はそれが更に「囚われた夫を解放する」という理念とも重ね合わされていて、非常に「崇高な」女性像に持ち上げられている。もっとも、それだとフロレスタンの立場が無くなってしまうので、台本の中では「大臣の旧友」だったり、終幕では何故かレオノーレと一緒に徳を讃えられたりして何とか帳尻を合わせているのだが・・・。

 葛藤→解決というモチーフは、音楽家でありながら難聴という困難を克服しようとしたベートーベンの生涯と重なるが、そうすると囚われたフロレスタンはベートーベンその人を象徴することになる。ベートーベンは死ぬまで独身だったし、また、成就した恋もなかったようだが、暗黒の地下牢から「陽の光の下」にフロレスタンを解放するレオノーレは、もしかしたら極めて理想化された形での、ベートーベンの「永遠の恋人」だったのだろうか?